あんな傲慢な類の愛を押し付けたり

甘いシロップに漬かったチェリー

 

ずっと食べていられると思った

 

すぐに飽きて

 

気持ちが悪くなるとも知らず

 

手を伸ばし続けた 

 

 

 

 

 

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好きです と言って始まる

付き合いましょう と言って始まる

そういう普通の恋愛を知らなかった。

ちゃんと愛されている

大切に思われている

そういう実感を知らなかった。

私が好きなのは彼だけで

彼が好きなのも私だけ、

そういう当たり前の関係が

私にはとても特別に思えた。

 

17歳の頃にはなかった

好きな人からもらう「好き」という感情に

私は浮かれ、夢中で手を伸ばしたのだった。

 

私達は半分うまくいっていて

もう半分は最悪だった。

喧嘩をすれば互いを酷く傷付けた。

 

 

‟喧嘩するほど仲が良い”と言うが

その本当の意味はどうなのだろう。

 

喧嘩をするほど仲が深まっていくのか?

喧嘩が出来るほど本音を言える仲 なのか?

そもそも‟喧嘩”というものは

言葉や暴力による争いや諍い なのだ。

本当に本音を言うだけの言い合いなら

争いや諍いに当たるのだろうか。

喧嘩にならないのが一番良いのではないだろうか。

 

少なくとも私達は

‟喧嘩するほど仲が良い”とは言えなかった。

初めは気にならなかったことが

だんだんと気になり始める。

少しズレただけで苛々してしまう。

「分かり合うための喧嘩」のつもりが

「別れるための喧嘩」へ変わっていくのだ。

 

自分の傷にばかり目を向けて

相手の痛みには気が付かない。

そうして互いをどこまでも傷付ける。

 

相手を思い遣る余裕など持てなかった。

ただ愛されることだけが大事で

「彼女」であることを免罪符に

何をしても許して愛してほしいと

身勝手なことばかり考えていたのだ。

 

本物かどうか確かめる術を

永遠かどうか知る方法を

他に思いつかなかった。

時間をかけて見極めることも

その時間を待つことも出来なかった。

 

17歳の私を引きずったままの私の

彼でも他の誰でもない私だけの問題を

私は彼に押し付けていた。

そんな関係に耐えられる人などいない。

 

引き金さえ引けば

いつでも終わりになる

そういう危うい関係を

私自身が作り上げてしまった。

 

 

相手の全てを受け入れるなんて幻想だ。

どんなに好きな相手でも

パートナーでなく、家族であっても

どれだけ心を許した親友であっても

その全てを受け入れることは 出来ない。

その距離感を 私は掴めなかった。

 

たとえば私のこれまでのことを

身体を売っていたことや堕胎したことを

私は一生、夫には話すことは出来ない。

話せば私の気持ちは軽くなるかもしれない。

しかし その代わりに

私の軽くなった分の人生が

夫に重く圧し掛かることになるのだ。

そんな風に重荷を課すことを

「愛」とは呼ばない。

 

永遠でありたいからこそ

話せないことも確かにあると

私は そして 思うのだ。

 

 

彼とのことも

私が何もかも求め過ぎ、

何もかもを欲しがり、

1㎜のズレもない関係を求めなければ

きっと 少しは違っていた筈だ。

17歳の私が貰えなかった「愛」を

18歳の私の相手に求めるべきではなかった。

 

 

「愛」に擬態した「欲望」は

人の本質をも変えてしまうのだ。