汚れてる野良猫にも いつしか優しくなるユニバース

 

大人になるということ

 

必要でも不要でも関係なく

 

様々な知識を頭の中に溜め込んでいくこと 

 

自分の立ち位置を知ること

 

“分相応”を覚えること

 

「純粋」から最も遠いところ

 

 

 

 

 

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小学生の頃好きだった男の子、

小学生の頃まわりでモテていた男の子、

顔は関係なくて

一緒にいて楽しいことが一番だった。

笑わせてくれる子だったり

スポーツが好きな子だったり

同じゲームが好きだったり

優しい子だったり

勉強ができる子だったり

面倒見のいい兄貴肌の子だったり

好きになる理由はいつも内面や

その子の努力で得たものが多かった。

 

きっと、その「好き」には性が無かったからだ。

“触れる”という行為が無いから

純粋に内面だけで好きになれた。

それは「異性として好き」と言うよりも

「人間として好き」に近かったのではないだろうか。

 

成長して 色んなことを知って

本当に純粋に

内面だけで人を選ぶことは無くなった。

 

顔や身長や学校でのカースト

そういう外側の情報が多くを占めた。

 

さらに大人になると

そこへ経済力や将来性が加わる。

 

これはフィルターだ。

「顔」というフィルター。

「身長」というフィルター。

「経済力」というフィルター。

「将来性」というフィルター。

大人になる度に増えていくフィルター。

この目に幾重にも掛かったフィルターで

本当に大切なものが見えにくくなる。

目の前が曇ってしまって分からなくなる。

 

自分を大切にしてくれる人だろうか?

自分を心から笑わせてくれるひとだろうか?

自分は本当にこの人を幸せにしたいと思えるだろうか?

 

この人を

 

本当に

 

愛せるのだろうか。

 

顔が好きだとか

話を聞いてくれたからとか

寂しかったからとか

そんな理由で付き合って

うまくいった試しがない。

 

自分を大切に思ってくれる人

自分が大切に思える人を

いつも見間違えてしまっていた。

 

彼と出会って

子供の頃に好きだった子達を思い出した。

笑わせてくれて

優しくて

好きなゲームが同じ男の子。

 

純度は100%でなくていい、

出来るだけフィルターを取って

子供の頃のように純粋に

誰かを“人間として”愛せる、

もう一度

そんな風になりたいと思った。